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見た事、聞いたこと、思ったことのメモ。

むき出しになれるキラキラした世界〜「愛の渦」を見てきました

「愛の渦」を見てきました。面白かった。空気のひとつひとつに意味がある感じで良かった。

乱交パーティの一夜の物語。一晩限りの小さな社会ができあがり、その中で露呈する人間の弱さとか醜さとかしょぼさが、「ああ、あるある」「その空気感とか居心地の悪さ、わかる」という感じで見ながらやきもした。男性が背筋を丸めてゾンビのように女性にじりじり近づいていく感じとか。冒頭の乱交パーティの部屋に参加者が入ってくるシーンのアングルと音楽は、キラキラ目眩がする。三浦監督は、キラキラする場所を知っているんだ。いいなあ。

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◆名前を変えた存在になれる場所

先日、「わたしたちはどこから来てどこからいくのか」の刊行記念イベントに行って来たのですが、そこで「AV女優の社会学」の著者鈴木涼美さんが、「違う名前で、魂と体をおける場所が少なくなっている」という話をされていた。別の社会と両立することができるから、傷ついたり楽しくなったりできるのに、そういう場所がなくなると、一時的にリンクする社会で風邪を引いたときに、本気で風邪を引いてしまう、という話。


愛の渦で言えば、池松壮亮さん演じるニートの男性が、本気で風邪を引いていた。時間が進んでいく中で、参加者それぞれに「別の社会」があるのがわかる。保母さんとして働いている、結婚していて、サラリーマンとして働いている、店長と同姓している....など。ちゃらんぽらんに見える窪塚洋介演じる店員にすら赤ちゃんが生まれて父親になる。ニートの男性だけは、帰るべき別の社会がない。


ニートの男性はパーティの中で、門脇麦さん演じる女子大生に恋に近い感情を抱く。女子大生が他の男性にセックスに誘われたときもつい止めてしまう。パーティ終了後女子大生から呼び出され、ニートは今後の関係が発展することを期待する。しかし、ニートが女子大生の名前を電話帳に登録しようとしたとき、「電話はかけないで欲しい。電話番号を消して欲しい。そのために呼んだのだ」ということを彼女から告げられる。パーティ後、女子大生の携帯電話を探すために、ニートの携帯電話を使った。その番号を消して欲しいということを頼むために呼び出されたのだった。


「あそこにいる私は、違う私。本当の私ではない」。彼女もまた、大学に通い、帰るべき別の社会を持っている。女子大生との別れ際に、「僕は、あそこにいるのが本当の自分ですけどね」と言う。その場所の居心地のよさはべつとして、帰るべき場所があるからこそ、みんなむき出しになれたのか。


乱交パーティ中に、女子大生が「そう見えないかもしれないけど、わたし今すごく楽しいです」と言ったのと、ニートが「僕もそう見えないかもしれないけど、すごく楽しい」と言ったのは、違う場所から言っていたのだと思うと切なくなった。

映画「愛の渦」公式サイト

*1:「愛の渦」公式サイト http://ai-no-uzu.com/

セックスワーカー会議報告会に参加しました

2月22日に弾丸で京都を訪問し、セックスワーカー会議報告会に参加してきました。研究者、セックスワーカーの当事者、関連NPOの方、アクティビストの方など、スピーカーの皆さんが多様&豪華で、あらゆる角度からセックスワークについて考えることができる会でした。

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会議では、セックスワークの国際的な捉えられ方から労働権、衛生面、性暴力、貧困問題、キャリア、教育などについて、それぞれの方がご自身が行われている活動と会議の様子があわせて報告されました。5時間超のイベントなので、内容のレポートは省き、考えたことのメモを残しておきます〜。

◆社会的な基盤を整えること

自分の意思で働いている女の子の中で、ポジティブに働いている人、ネガティブに働いている人がどれくらいの割合でいるのかが感覚としてですら把握できていないので、「何をすればいいのか」「どう捉えられればいいのか」は正直わたしはまだ答えが出せません。ただ、今の時点では「かわいそうな人、弱者が働いている世界」というイメージや偏見はなくした方がいいと思っています。以前紹介したこちらの記事(風俗嬢より:ちょっと言わせて | M-Labo)でも、「傾聴と共感を必要としている」という気持ちが綴られていましたが、そのように支援の対象=弱者として見られていると、偏見を払拭するということが現時点では難しいと思うからです。なので、セックスワーカーとして働きたい人が堂々と働き、働きたくない人が従事することがない社会になることが、当たり前かもしれないけど理想なのでは、と今のところは思っています。(いろんな人の影響を受けてこう思うようになったのですが)。AV女優の社会学にも、以下のような一節があります。

「意外に思われるかもしれないが、河合隼雄の「売春は魂が傷つく」といった考えに、私は少なからず同意するのだ。(中略)しかし、いま具体的に身体を売っている女の子たちは、おそらく必ずどこかで嘘をつかなくてはならない。誰かに隠しごとをしなくてはならない。そうでなければ社会から爪弾きにされるかもしれないし、誰かを深く傷つけるかもしれない。私たちは自分が組み込まれている愛らしい世界を壊さないように、嘘をつく。けれどだからこそどこかで破綻する怖さ、世界が壊れてしまう不安を抱え続ける運命にある。魂が傷つくという表現は大袈裟であっても、とても心が疲れる」
(鈴木涼美「AV女優の社会学」)

報告会では、質疑の機会に「働きたくない人が働かなくてもいい状況をつくる動きは?」「社会、店、労働者、客、それぞれのステークホルダーがどうしていくべきか?」ということを伺いました。

セックスワークをしたくない」という人が働かなくてよくなるためには、同じ程度のお給料や待遇が必要になりますが、代替となる職業は今のところほとんどなく、水島かおりんさんが職業の選択について以前Twitterで投げかけたところ、上がってきた職業はクラブのお仕事くらいだったそうです。衝撃でした。

また、青山薫さんは「労働問題。セックスワークスティグマがあるから、ひどい労働だと思い込まれがちだが、働いて仕事がある人というのもぼろぼろになっている。労働環境が悪い中で、セックスワークだけ特別なものといっても仕方ないので、全体としてよくしていかないといけない」という趣旨のことを話されていました。

社会として労働環境をどう整えていくべきか、スティグマをどのように払拭していくべきか(払拭すべきかどうか)ということ、整ったとして、社会とワーカーがうまく接続できるかということも、まだ自分の中ではもやもやっとしています。

◆区分と段階で分けて考えること

それから、GROWASPEOPLEの角間さんが話されていた「今なにが求められているのかが置き去りにされている」という趣旨のお話を聞いて、もう少し段階を分けて議論する必要があるのかなと思いました。

セックスワーカーになる前の部分では、上で書いてきたようなどうしたら働きたくない人が働かなくてよい社会になるか?ということ。セックスワーカーになった後の部分では、よりセーフに働くには?労働権を得るには?今、実際に働いている人が求めているものは何か?など。

なんか同じことを繰り返し書いてしまっている気がしますが、そんなことを考えました。

貧困もセックスワークも一言では括れない

M-Labo(M-Labo|医療学生・若手医療者がみんなでつくるWEBマガジン)に掲載された二つの記事を読んで、またそれに対するネット上の反応を見て思ったことのメモです。

→社会的弱者が性風俗で働いているという事実が指摘されています

→それに呼応する形で、当事者として感じていることが紹介されています


それぞれの記事で別の問題を指摘しているように思うのですが、ネットを見ているとそれを混ぜて捉えてしまっている感想が多いように感じました。

◆ひとつの論点では語れない

セックスワークと言っても、様々な人がそれぞれの事情で働いているので、一言では括れないと思います。ぱっと思いつくだけでも、以下のような論点があります。

セックスワーカーの安全について>

→営業中の事件事故、性病、衛生、精神面等に対するケア

セックスワークと貧困について>

→シングルマザー、知的障害者、低学歴、低所得、失業者などの社会的弱者がセックスワークに従事するなど、社会が引き受けるべき経済的困窮のセーフティネットセックスワークが引き受けているという問題について。NHKクローズアップ現代あしたが見えない - NHK クローズアップ現代)でも取り上げられました。

セックスワーカーのキャリアについて>

→40歳を超えると働く/稼ぐことが難しくなる。セックスワークに従事した後、どうやって生きていくか。

<労働者としてのセックスワーカーについて>

→「職業」として認められない、「労働者」としての正当な権利が得られない。社会から隠匿される。偏見やセックスワーク=悪いという固定観念がある。

セックスワーカーとは誰か>

→形態として「管理型」、「搾取型」、「個人型」があるが、(これはGROW AS PEOPLE さんが定義したものなのかしら?)「管理型」の中にもポジティブな理由で働いている人、ネガティブな理由で働いている人がいるし、さらに細分化すれば彼氏や家族に打ち明けられているかどうかとか、いろいろな人がいる。


どれも関連し合っていて完全に切り分けることはできないと思いますが、セックスワークについて考える時に「誰のための議論なのか」「どんなことが問題なのか」「そのボトルネックはなんなのか」は論点によって異なってくるので、少し整理をして考える必要があるのではないでしょうか。これらの問題(ほかにももっとあると思う)をごちゃまぜにしたままで、女性が風俗で働くのは自由だとか、働くのが良いだ悪いだとか、ケアがどうとか偏見がどうだとかを語ることに違和感を感じました。



....書きたいことがありすぎてまとまらないので、まずはここまで。


<関連>

ものづくりという新しいメディア、コミュニケーション〜講演会「図書館と3Dプリンター:海外の動向」@SFC

1月20日(月)、SFCの湘南藤沢メディアセンターで講演会「図書館と3Dプリンター:海外の動向」が開催されました。3Dプリンタを日本で初めて大学図書館に導入したSFCでの使われ方や海外の動向について、環境情報学部の田中浩也准教授と田中研究室の学生が話しました。


空き限だったので参加してきました。生徒の参加よりも学外から来た(と思われる)方の参加が多かったです。雑ですが講演の要旨メモをおいておきます。

◆第3次産業革命

80年代に生まれた方はよくわかると思うが、大型計算機がパーソナルコンピュータになり、技術の意味付け、使い手、文脈が変わった。デジタルファブリケーションの部門で似たようなことが起こっている。

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3Dプリンタは30年前からあったが、デザイナーや専門家が工業製品の試作品をつくるための工作機、特殊なものとして使われて来た。2008年に特許がとれたことを皮切りに、普通の人達が知的、創造的活動をするパートナー、メディアとして普及しはじめた。今まで大企業しか持てなかったものがパーソナルに。ユニークでニッチな製品をつくってビジネスができるようになった。第3次産業革命と言える。

3Dプリンタで新しい情報文化をつくる

その一方で、3Dプリンターにはもうひとつの側面がある。それは、新しい情報文化をつくるということ。このキャンパス(SFC)は20年前、日本で最初にインターネットを始めた大学。インターネットのクリエーションを実践してきたが、それは画面の上だけのクリエーションだった。リアルな場の重要性がどんどん下がり、画面に没入するようになった。人と人とのコミュニケーションがバーチャルに浸透してリアルが希薄化した。


ものづくりをリアルで行なうことが、新しいコミュニケーションの方法。物質を汲み取ることができる新しい情報文化になっていくのではないか。SFCではものをつくることを専門とした研究室が使う本格的な工房と、情報活動ができるメディアセンターとの両方で(ものづくりが)できる。学生は理系的な人たちだけではない。社会学や心理学やコミュニケーションを専門とした学生がたくさんいる。そのような学生たちが、新しい技術をつかって、どんなものをつくっていくのか。


私たちは無意識の中にもののカテゴリを分類しながら生きている。3Dプリンターは工作機会の枠組みだったが、これからはメディアの枠組みになるのではないか。PCやワープロなどのように日常的に表現をしたり編集をしたりするものになっていくのではないか。

◆導入から1年、学生たちはどんな利用をしているのか

SFCFabスペースでの事例。2013年4月に導入。SFC3Dプリンターがあることの意味はなにか。取り扱っている分野が幅広いので、それに3Dプリンターが加わったときに何が起こるのか。趣味、授業、研究室などで様々なものがつくられた。漢字書き取りに使う3股鉛筆は反響があった。データ共有サイトにアップしたら海外含め200件くらいのダウンロードがあった。防災学の研究室とのコラボでは、いつでも携帯できるタバコ型ホイッスル、脳科学の研究室では標準脳ではなく個人の脳の作成が行なわれた。学生が3Dプリンタコンサルタントを務め、データの作り方などのアドバイスを行なっている。9ヶ月で一般の学生約320名が利用した。

◆海外の動向、活用事例

欧米では公共の図書館でよく利用されている。NPOと連携して運営、音楽の作成に特化しているなどそれぞれの図書館に特色がある。

◆今後の展望

どこが障害になっているのか、一般の社会に広がるためには、どのような学術研究をすればいいいのか、利活用してる様子をみて、問題を見つけようとしている。例えば、3Dプリンタはよく壊れる、3Dデータの作成が簡単ではない、素材をいつまでも無料では使えないという3つの問題。


研究室で、早い、精度が高い、ひとつのプリンタをみんなで囲めるように360度から見れるデザインのプリンタをつくっている。パーソナルに向きあるという形の構成。


また、3Dのドローイングソフトの作成をしている。3Dをお絵描きと捉えて、空間の上に筆で絵を書くような感じのツールの導入。粘度で形を構成するような感覚で、直感的にデータがつくれるようにしたい。


3次元のシュレッダーもつくっている。シュレッダーをかけて、材料がまたつくれるというシステム。ペットボトルのゴミをリサイクルして材料にするということも今後やってみたい。いろんな実験を続けていきたい。

◆ひとつの街にひとつのファブラボをつくる時代

世界で200カ所以上あるファブラボ。20世紀はひとつのまちにひとつの図書館をつくった。文字の読み書きが市民社会のベースとして求められてきた。21世紀はひとつのまちにひとつのファブラボをつくる時代だ。地域の問題を地域で解決するものづくりが誰にでも必要なリテラシーとして求められる。アマチュアから専門家までがともに学びつくる場所として、ファブラボ鎌倉がある。地域とのコラボレーションをしている。高齢者向けのグーグルグラスの作成なども行なった。

◆なぜものづくり?

ものづくりをしないといけないのか?という質問がある。これまでの社会では、知識というものはほとんど文字で記述されてきた。自然言語がかなり大切にされてきたが、「もの」は特別な人がやる特殊なものという意識があった。ものに関するリテラシーが下がっている。震災を経て、身の周りのものがどのようにできているのか考え直す必要がある。


ものを読むというのはどういうことか?ものを読むというのは、昔のものを一度解体して、ものの仕組みを理解してよみこんで、本のように時系列で並べてみる。既存のものの仕組みを理解して本のように知識の仕組みのまとまりをつくるということを、ものを読むと読んでいる。Fablibの試みをやっている。


これまでの図書館は「文字」、博物館は「もの」と捉えられて来た。これからの時代は、知識を受け取るだけではなくてつくる、文字の読み書きではなくて、ものの読み書き、知識というものをもう一回再定義する必要がある。コンピューターの上でやるだけではなくて、マルチメディアでなくてマルチファブ。いろいろな素材に触れて、材料と対話をしながら、触れる知識というものをつくっていきたい。今後非常に大事になるのではないか。

人のために生きること、自分のために生きること〜「かぐや姫」と「まどか☆マギカ」

12月〜1月に観た映画で特に自分の体験に触れたもの、衝動が湧いたものに関して感想を残しておきます。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編/叛逆の物語」

久しぶりに涙をこぼし迷いなく「めちゃくちゃ面白かった」と感じた映画です。

http://109cinemas.net/media/W1siZiIsIjIwMTMvMDkvMTAvMTZfNTFfMTFfMzQ0X1x1MzA3ZVx1MzA2OVx1ZmY4Zlx1ZmY3N1x1ZmY5ZVx1NjViMFx1N2RlOFx1ZmY5Mlx1ZmY3Mlx1ZmY5ZC5qcGciXSxbInAiLCJ0aHVtYiIsIjY0MHgzNjAiXV0/%E3%81%BE%E3%81%A9%EF%BE%8F%EF%BD%B7%EF%BE%9E%E6%96%B0%E7%B7%A8%EF%BE%92%EF%BD%B2%EF%BE%9D.jpg
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◆自己犠牲によって生まれたシステムの否定

映画の私的なハイライトはここです。「わたしは何にもできない人間だから、自分が犠牲になって役に立ちたい」という自己承認のための自己犠牲を大否定するところ。


テレビアニメ版では「あなたのことを大切に思ってる人達はどうなるの?」「あなたが大切」というような言葉をほむらから、家族から、何度も注がれてきたにも関わらず「わたしって何にもできない人間だし...」とか「みんなのためになりたい」と「円環の理」という概念になったまどか。


真実を背負わせて友達を一人にぼっちにしてしまうことも、責任と執念に突き動かさせてしまうことも、まどかを忘れたはずの母親がリボンを見て涙を流すことも、気がつけない。まわりの人からこんなにも愛を受けながらも、どうして自分の命が大切でかけがえのないものだと気がつけないのか、どうしてまわりの人を大切にできないのか、遠くを見てしまうのか。

◆偽善ではない利他性とは

まどかが円環の理になったのは、「世界中の魔法少女のため」「友達のため」ではなく、「承認されたい自分のため、自分の居場所を見つけるため」。その証拠に、ほむらが円環の理の一部「鹿目まどか」を取り出しても残りの世界はまわり続ける。つまり、円環の理をつくり出すときに「鹿目まどか」本人が概念になる必要はなかったということ。(たぶん)まどかがした行為は利他的に見えてとても残酷な行動。自分と目の前のことしか見えないから、家族友人をないがしろにして、ほむらは悪魔になった。


まどかが自分に重なって、本当に痛めつけてやりたくなった。しばらくの期間、自分とまどかに腹を立て続けた。偽善者であり利他的でいることはとても気持ちがいいし楽だけれど、どうしたら偽善から抜け出して、最善の判断を下せるのか、本当に人を大切にするとはどういうことかを考えさせられる映画でした。全力でアニメ版の悲しい部分を救いにかかってからのほむらの悪魔化という演出もよかったのかな。そういうことが伝えたい映画ではないのかもしれないけれど。

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

かぐや姫の物語

◆女として生きること、人間として生きること

「女」として生きる事と、「人」として生きることが切り離されていることが悲しかった。「女」として生きることの幸せと「人」として生きることの幸せは違うのか。男が望む「女」になるときには自分自身を捨てなければならないのか。「女」でありながら「人」として生きるとはどのようなことか、ということが問いかけられた。

http://109cinemas.net/media/W1siZiIsIjIwMTMvMTAvMTEvMTFfNTFfMTBfMzEzX1x1MzA0Ylx1MzA1MFx1MzA4NFx1NTllYi5qcGciXSxbInAiLCJ0aHVtYiIsIjY0MHgzNjAiXV0/%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB.jpg*2

かぐや姫が犯した罪と罰について

かぐや姫の罪は「地上での生活に憧れたこと」、罰は「穢れのある地上に落とすこと」という風に見えるけど、「わたしは、地上に来てなにをやっていたんだろう」「わたしは生きるために生まれてきたのに。鳥や獣のように」、「わたしは偽もの!」等のセリフにもあるように、都に行った後に「偽ものの『女』として生きてしまい『人』として生きなかったこと」、「人の情けを求めて地上に来たのに、それを捨ててしまったこと」が罪で、「記憶を消して、天上に連れ戻すこと」が罰なんじゃないかなあと思っています。かぐや姫は助けを求めなければ連れ戻されることなくずっと地上にいることができたので、人間や人の情け、こころというものが試されていたのではないかなあと。


かぐや姫は天上に連れ戻されたけれど、連れ戻される前に捨丸兄ちゃんとなら、女としても人としても生きられるということに気がついたし、天の羽衣を羽織った後も涙を流した。山で暮らすかぐや姫は、いきいきとしていた。まとまりないですが、人間は欲と邪念と穢れに満ちていて、ばかだけどそれでも地上は美しいという希望というか救いがあるように思いました。私たちは天上に連れて行かれる前に、しっかり人間として、生きねば。

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かぐや姫の物語 公式サイト


友達のため、家族のため、人のためになりたいのなら、まずは自分に向き合って自分のために生きなくては。